あなたは誰かを殺したいと思ったことがありますか?


・・・なんてドキッとする質問ですよネ(笑。





この物語はある一人の男を殺したいと足掻き続けてきた


主人公・田島和幸の半生を描いた作品です。


和幸が殺意を抱くその男とは、小学校の同級生・倉持修。


「不幸の手紙」を手にした後から、次々に和幸に襲い掛かる不幸の連続。


そしてその不幸の陰には、何故かいつも倉持の存在が。


幼いながら芽生えた倉持への最初の殺意の表れは、


倉持の好物である鯛焼きに染み込ませた毒・・・





・・・とにかく、めっちゃ暗いデス・・・。


全体的に「手紙」を彷彿とさせる暗い心の闇が漂います。


「殺人の門」を読んでいるワタシの気分は最悪。


確実にテンションが下がります。


やりきれないというか、やるせない気持ちで息苦しくなります。


和幸はつましい生活の中にも幸せを築こうと精一杯生きているのに、


まさにその幸せを掴もうという和幸の前に倉持が現れる。


そして容赦なく訪れる不幸・・・。






こんな酷い仕打ちを繰り返し受けていても「殺人の門」をくぐれない和幸。


もし殺人を犯す境界線があるとしたら、


それを越えるために必要なものは何か?


和幸の中には今まさに「殺人の門」に到達しそうになるほど


倉持への憎悪がマックスに蓄積され、


猛烈な殺意でじわじわと追い込まれているのに、


どうしても最後の一歩で思い留まってしまう。


くぐれない。





和幸が最後の最後まで「殺人の門」をくぐれなかったワケは、


彼の性格がお人よし過ぎ、意気地なし、という観もあるけれど、


それ以上に大事な要素があると気づかせてくれる。


これほどまでに倉持を憎み、20年もの年月をかけて育まれた和幸の殺意は、


きっと誰にも負けないほどの強烈なものであったはず。


でも、心の中で殺したいと思っただけでは罪にはならないのですよね。


もし「殺人の門」という殺人を犯す境界線のようなものがあるとしたら、


それを超えるか超えないかは、タイミングだとか、運だとか、


殺意を抱いた時の状況だとか、その時をとりまく環境に左右される。


和幸にはその要所要所で必要な条件がうまく重なり合わなかったから


そのボーダーラインを越えられなかったのでしょう。






でも、最後の最後で、和幸はついに


偶然と感じていたいくつもの出来事、そして和幸の人生そのものを


倉持によって操られ、支配されていた事実を知ってしまいます。


「殺人の門」への全ての条件が全て揃ったその時、和幸の行動は・・・。


・・・思わず目を背けたくなってしまうような結末でした。






この期に及んでなお、倉持に操られ続ける和幸の人生。


そんな辛く悲しく暗い人生を歩むことになってしまうのならば、


幼少期のあの時、いっそのこと毒入り鯛焼きで


倉持を殺しておけばよかったのに!


と恐ろしいことが頭をよぎってしまったワタクシ(笑。


チョー暗~い世界に浸れます。


能天気なあなもどんよりしてしまうくらいでした。





なんだか、東野圭吾の作品を何点か読んでみて、


思わず横山秀夫の作品との違いを感じてしまいました。


横山秀夫のほうが読後感が爽やかで、


思わず涙してしまうような感動を呼び起こしてくれる気がします。


一方東野圭吾のほうは、どんよりと人間の奥底のほうに潜む、


憎しみや妬みや悪意といったものをじっくりと描き出し、


かなりえぐみを持って訴えかけるような作品が多いです。


自分が相当元気な時じゃないと負けちゃうかも・・・(汗。


それくらい衝撃的な作品であるってことは、


ある意味スゴいですけどネ・・・